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極楽浄土を願う寺院として

観音寺の歴史は『池』から始まる。

 当時、現在の本堂前に立派な松があり、そのふもとに池があって中央には弁天様が祀られていた。ある時、池の中に光る物があるので取り出してみたところ、それは石仏の観音像であった。その頃より、この地に住む有縁の人々によりお堂が建立され、そのお堂には石仏の観音様が聖観世音菩薩として祀られ人々の信仰を集めた。田園が広がるこの地の真ん中に建てられた、少し小高いこのお堂は『田中の観音様』と人々に親しまれた。

 江戸の元禄年間において、浄土宗の傑僧であり京都にある法然院開山の忍澂上人が訪れ、このお堂を法然上人のお念仏を広める道場として『獅子谷』の名を残した。

 その後、名古屋城より印場(瀬戸市)の狩猟に向かう際に休息所として用いられ、尾張徳川家も関与があったとされる。

 明治・大正期において、尼僧・石井勇道上人の類まれなご信仰と、この地に住む人々のご尽力や、多くの僧侶の支援により『観音堂』から『観音寺』となる。その弟子である石井勇心上人は幼少期より出生の地である一宮から名古屋に住まいを移し、仏道を志し修行の地、京都の吉水で浄土宗僧侶としての基礎を築く。観音寺に戻ってからは、山本空外上人などの名僧の教えをこうて、さらに興隆に励み、平成の終わりに開基以来の念願であった本堂の新築を果たす事になる。多くの方に参集いただいた落慶法要より2年、惜しまれつつ極楽への往生を遂げられる。いよいよ病院に入院される直前まで有縁の方のもとに駆けつけ、笑顔で共にお念仏されるお姿は皆の心に刻まれる風景であった。

   

 〈観音寺ご詠歌〉

      つきもひも たなかのどうに かがやきて だいひのかげの めぐまぬわなし

 勇心上人ご在世の時に法灯を繋いでいただき、現在は大田春光が三代目の住職に就任。「多くの方とご縁を頂戴し、どんな方でも分け隔てなく法然上人の念仏を広める」を旗印に掲げ、時代に合わせた工夫を凝らした法要に努める。通夜・葬儀の説明、阿弥陀仏の来迎、極楽浄土の様子、浄土宗のお参りの仕方などしっかりとした説明により市内はもとより市外にも教線を広げ、現在に至る。

​浄土宗 田中山獅子谷 観音寺

©2023 kannonji

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